06:
これは先週末のことなんだけど、鷲林寺町へ行ったんだ。
鷲林寺町は西宮の北の方にある小さな町で、これといって特に何かがあるわけでもない住宅地なんだよね。 で、なんでそんな所に行ってたかっていうと、親の会合の付き添いで連れてかれて…。
うち、昔からこの辺りで付き合いのある家が多くてさ。 親がこういう会合に呼ばれることも、結構あるんだ。
うちは行きたくないんだけど「子供のうちから顔を覚えてもらえ」って言われて、散々連れ回されてきたってわけ。
まあ、ずっと席の場にいさせられるわけじゃないから、まだ気楽だけどさ。 でも、色々と話はしないといけないわけじゃん?
議員のおじさんも気を遣って、多少は女子高生が面白がりそうな話とかしてくれるんだけどさ。
そこで聞いたのが『牛女』の話。
鷲林寺の弁天池には「牛の顔を持つ女」が出るんだって。 昔は、心霊スポットとして沢山の人が訪れて大変だったらしいよ。
それとは別に、弁天池にはお姫様の伝説もあるんだって。
戦国時代に、お姫様が池に身投げしたって伝承なんだってさ。 なんか、織田信長に追われてお寺に逃げ込んだら火をつけられちゃったんだって。それで、熱さから逃げるために水の中へ…。
悲しいお話だよね。
私は、その話を聞いて、散歩がてら鷲林寺まで行ってみることにしたんだ。
時間は昼食の後だったから、二時頃かな? お寺は山に囲まれてて、ちょっとしたハイキングみたいな感じで。
スマホで調べながら歩いてたんだけど、紅葉シーズンは観光スポットだったりするらしいから、その時は気軽に考えてた。
杉の森に囲まれた階段を登っていくと小さな祠があって。 「弁天池」って書いてある。
正直、感想で言えばショボって感じ。 コンクリートの橋がかかってて「あー、これかー」くらいしか言葉がでなかった。
でも、うちはそこで出会ったの。一匹のネコに。 まあ、うちは無類のネコ好きなわけで、追いかけずにはいられないよね。
「ほら、こっちおいでー」とか言ってみたものの、全然遊んでくれなくて。 祠の周りをグルグル回りながら追いかけっこしたんだけど、山の中に逃げてっちゃった。
本当にそれくらいしか特別なことはなくて、一通り境内を回って会合に戻った。
07:
会合に戻ると、お父さんたちはすっかりお酒が回っていて、お母さんは他の奥さんたちとお喋りしながら片付けをしてた。
ウチは広間の端に座って、スマホを見てたんだよね。さっきの猫、写真くらい撮らせてくれてもよかったのになー、とか思いながら。
そしたら、お母さんの知り合いの女の人がお茶を持ってきてくれたの。
お寺はどうだったって聞かれたから、弁天池を見てきたことと、猫がいて可愛かったことを話した。
その人、ウチの話を聞いて、ちょっと面白そうに笑ったんだよね。
それで、祠の周りは回らなかったかって聞いてきた。
回ったよって答えたら、今度は何周したかって。
いや、猫を追いかける時に、そんなの数えてないじゃん。
でも、何回もぐるぐる回ったのは確かだから、そう話したんだ。そしたら、その人が牛女の噂を詳しく教えてくれた。
夜中の二時に、弁天池の祠を反時計回りに三周するんだって。
怖いのは、回ってる時じゃなくて、その帰り。
お寺を出て歩いていると、後ろから、カツン、カツンって音が聞こえてくるらしいの。
人の靴音じゃなくて、牛の蹄みたいな、硬い音。
それで、何だろうって振り返ると、牛女がいるんだって。
牛の体に女の顔がついてるっていう話もあるし、女の体に牛の顔がついてるっていう話もあるらしい。さっきおじさんから聞いたのは、後の方だったんだけど。
どっちにしたって、そんなのが後ろを歩いてきたら嫌じゃん。
しかも、牛女に追いかけられるなんて話まであるんだって。
聞きながら、ちょっと背中が寒くなった。
ウチ、さっきそこを回ったんだけど。
知ってたら、絶対やってない。猫は可愛いけど、それとこれとは話が違うし。
そしたら、その人がウチの顔を見て、帰りに変な音はしなかったかって聞いたの。
そこで、弁天池を出てからのことを思い返してみた。
猫に逃げられた後は、そのままお寺の中を見て回った。階段を下りて、来た道を戻って、ここまで歩いてきた。
……別に、何もなかったよね。
カツン、カツンなんて音は聞いてない。何かの姿を見たわけでもないし、誰にも追いかけられてない。
猫を追いかけた以外は、普通にお寺を散歩して帰ってきただけ。
そう答えたら、その人も、じゃあ心配しなくていいねって笑ってくれた。
そもそも、ウチが行ったのは昼間だし。
二時は二時でも、午後の二時。夜中の二時なんて、普通に寝てる時間だよ。
そこまで考えたら、ちょっと安心した。
さらに、その人が教えてくれたの。
牛女は、もう引っ越したことになってるんだって。
何それ。引っ越しって。
牛女にも、もっと住みやすい場所とかあるわけ?
ウチがそんな顔をしたからか、その人は笑いながら事情を説明してくれた。
牛女の噂が広まったせいで、昔は夜中に肝試しに来る人がたくさんいたんだって。お寺で大声を出したり、悲鳴を上げたりするから、お寺の人は眠れなくて、すごく困ってたらしい。
それで、牛女は引っ越したという看板を出したら、来る人がぐっと減ったんだってさ。
本当に何かが引っ越したわけじゃなくて、夜中に騒ぐ人たちに帰ってもらうためだったんだね。
看板を見て、どこへ引っ越したのか聞きに来た人までいたらしいよ。
そこまで聞いたら、ウチも笑っちゃった。
牛女がいるかどうかより、引っ越し先の方が気になるんだ、って。
お寺では何も起こらなかったし、噂にはそんな裏話まである。
帰りの車でお母さんに話した時には、もう、ちょっと面白いお土産話になってた。
08:
それから何日かして、夜に犬の散歩に出たんだ。
うちの近くに弓弦羽神社があるんだけど、知ってる?
ウチ、小さい頃からあの辺を歩いてるんだよね。犬の散歩でも通るし、見慣れた場所だから、夜でも別に怖くなかった。
その日も、いつもと同じ道を歩いてた。
犬って、毎日通ってるところでも、いちいち止まって匂いを嗅ぐじゃん。昨日もそこを調べてたよね、って思うんだけど、本人は毎回真剣なんだよ。
だから、神社のところで立ち止まった時も、またかって思ったの。
でも、その日は地面の匂いを嗅いでるんじゃなかった。
顔を上げて、境内の奥をじっと見てたんだ。
もう行こうって声をかけても、動かない。リードを軽く引いたら、今度は低い声で唸り始めた。
それで、ウチも同じ方を見た。
木の間に、人がいるように見えた。
暗い服を着てるのか、体の輪郭が影に紛れてて、何をしてるのかはよく分からなかった。でも、こんな時間にもお参りに来る人がいるんだな、くらいに思ったんだよね。
犬が唸ってるから、相手を怖がらせたら悪いなって。
早く連れていこうとしたところで、犬が一回、大きく吠えた。
その人影が動いた。
こっちを向いたんだと思う。
その時、初めて顔の形が見えた。
鼻と口の辺りが、妙に前へ突き出してた。頭の横には、尖ったものもあった。
人の顔にしては、形がおかしかった。
一瞬、何かを被ってるのかと思ったよ。
でも、そうだと分かるものは見えなくて。暗い中で、こっちを向いたその顔だけが、妙にはっきり頭に残った。
牛みたいだった。
顔だけ、牛みたいだったんだ。
その下には人の体があって、腕が下がってて、こっちを向いて立ってた。
さっきまで、お参りしてる人だと思ってたのに。
怖い、と思った時には、もう牛女の話を思い出してた。
09:
本当に、牛の顔をした女の人みたいに見えたんだよ。
細かいところまで説明しろって言われたら、困るけど。
服が何色だったかとか、髪がどれくらい長かったかとか、そういうのは覚えてない。顔が変だって思ってからは、そこばっかり見てたから。
あれがこっちへ動いた時、犬が後ろに下がった。
リードを引っ張られて、やっとウチも動けた。
とにかく、そこから離れたかった。
犬と一緒に走り出したら、後ろから何か声がしたんだ。
言葉までは聞き取れなかったけど、呼ばれたような気がした。
それで、つい振り返っちゃった。
さっきの影が、こっちへ来てた。
木の間にいたはずなのに、ウチが立ってた方へ出てきてたんだよ。
片方の腕が上がるのが見えたところで、もう無理だった。
あれが何をしようとしてるのか、確かめる気にはなれなかった。
そのまま前を向いて、走った。
ウチ、あんなに必死に走ったの、久しぶりだったと思う。
いつもなら、犬の方が途中で止まったり、曲がろうとしたりするのに、その時はずっと一緒に走ってくれた。
リードを離したら駄目だって、それだけは考えてた。
後ろからも足音がしてるような気がしたけど、自分の足音なのか、犬の音なのか、もう分からなかった。息も苦しくて、何もちゃんと聞こえなくて。
少し明るい道まで出たところで、車が通ったんだ。
それを見たら、やっと止まれた。
誰かが普通に車を運転してるのを見て、ほっとしたんだよね。さっきまで、ウチと犬しかいないような気がしてたから。
振り返ったけど、もう何もいなかった。
どこまで来てたのかも、いついなくなったのかも分からない。
帰ったら、お母さんに何があったのか聞かれたよ。
変なものを見て、追いかけられたって話した。お母さんも心配して、それからは散歩に一緒に来てくれてる。
犬もウチも、怪我はしてない。
あれから、同じものは見てないし、神社の方にも行ってない。
でも、一人になると考えちゃうんだよね。
会合で聞いた牛女って、ああいう姿だったんじゃないかって。
そこから、弁天池で祠を回ったことまで思い出しちゃって。
あの時は、何も起きなかったんだよ。
今、思い返してもそう。変な音も聞こえなかったし、誰かがいたのを見落としてたとか、そういう心当たりもない。
ただ猫を追いかけて、お寺を見て帰ってきた。
それなのに、あの顔を見てからは、三周してしまったんじゃないかってことが、ずっと引っかかるんだ。
本当に何もなかったなら、何で、ウチの家の近くであんなものを見るの?
偶然かもしれないけど、そんな偶然ある?
考えてたら、あの引っ越しの話まで嫌な感じになってきて。
看板の事情は、ちゃんと聞いたよ。お寺の人が困って、そう書いただけだって分かってる。
でも、牛女はもういないって言われた場所で、ウチは祠を回っちゃった。
それで、後から、別の場所で牛みたいな顔のものを見た。
もしかして、ウチについてきたんじゃないかって。
……そう思い始めたら、怖くなっちゃったんだ。
今日、日向子に話したのも、それで。
誰かに聞いてほしかったんだけど、こんなの、どこから説明していいか分かんないじゃん。
そしたら日向子が、そういう話なら分かる子がいるからって、ここに連れてきてくれたの。
10:
茶畑は話し終えると、膝の上で組んでいた手をほどいた。
坂本が隣から、その顔を覗き込む。
「……やっぱり、話してよかったでしょ」
茶畑は小さく頷いたが、まだ不安そうに摩耶たちを見ていた。
「変な話でごめん」 「ううん。怖かったよね、それは」
摩耶が答えると、茶畑は少しだけ肩の力を抜いた。
「信じてくれる?」 「何だったのかは分からないけど、茶畑さんが怖いものを見たっていうのは、ちゃんと聞いてるよ」
自分の体験を話す時の心細さを、摩耶は知っていた。だから、簡単に見間違いだと言って終わらせたくなかった。
星も静かに口を開いた。
「弁天池では、噂にある足音も、牛女の姿もなかったんですよね」 「うん。何もなかった」 「それなら、祠の周りを回ったことが原因だと、今すぐ決めなくてもいいと思います」 「でも、牛みたいな顔だったんだよ」 「はい。ただ、それを見たのは別の日の、弓弦羽神社ですから。鷲林寺から来たかどうかは、まだ分かりません」
茶畑はすぐには答えず、少し考えた。
「……ウチが、勝手につなげてるだけかもしれないってこと?」 「その可能性もあります」
星の声は穏やかだった。 茶畑はカーディガンの袖口をつまみ、小さく息を吐く。
「そうだったらいいんだけど」 「じゃあ、まずは牛女の話を、ちゃんと調べてみようよ」
摩耶が机の上の資料を脇へ寄せた。
「茶畑さんが聞いた話とか、歩いたところとか。一緒に確かめたら、何か分かるかもしれないし」 「確かめるって、鷲林寺に行くの?」 「うん。どうかな」 「ウチ、一人じゃ絶対やだよ」 「一緒にって言ったじゃん」
摩耶が笑うと、茶畑も少しだけ笑った。
「三周はしないからね」 「それはしなくていいって。肝試しじゃなくて、普通に見に行くの」
茶畑は隣の坂本へ顔を向けた。
「日向子も来てくれる?」 「もちろん。ここに連れてきたの、私だしね」
坂本はそう言ってから、思い出したように付け加えた。
「でも、放課後はバスケがあるからなあ。行くなら、GWの空いてる日にしない?」 「あ、それなら昼間から行けるね」 「夜は駄目。絶対に昼」
茶畑が念を押したので、摩耶は大きく頷いた。
「分かった。昼に行って、暗くなる前に帰る」 「僕も一緒に行きたいです」
星の言葉に、茶畑が顔を上げる。
「保科君も?」 「はい。予定を確認して、皆さんと合わせられれば」 「助かる。正直、人数は多い方がありがたい」
坂本が横から笑った。
「杏奈、さっきまで話すのも嫌がってたのに」 「だって、ちゃんと聞いてくれる人たちだったから」
茶畑はそう答えてから、摩耶と星を交互に見た。
「ウチも行く。あれが本当に牛女だったのか、ちゃんと知りたいし」 「じゃあ、四人で。日にちは、ピー子の部活の予定が分かってから決めよう」
摩耶がまとめると、坂本はスマホを取り出した。
「そしたら連絡先、交換しとこう。保科君、いい?」 「もちろんです」 「ウチも。藤森さんも交換しよ」
差し出された画面に、摩耶も自分のスマホを近づけた。
「摩耶でいいよ。同じクラスだし」 「じゃあ、摩耶。ウチも杏奈でいいからね」
茶畑の笑顔からは、部室へ入ってきた時の強張りが少し薄れていた。 連絡先を交換し終えると、坂本が時刻を見て声を上げる。
「あ、そろそろ行かなきゃ。先輩たち来ちゃう」 「ウチも帰る」
立ち上がった坂本に続いて、茶畑も鞄を持った。 扉のところまで行ってから、二人の方を振り返る。
「ありがとね。急に来たのに」 「また教室でね」 「うん。また明日」
二人が廊下へ出ていくと、摩耶は手元のスマホを見た。 この四人で、GWに初めて学校の外へ出かけることになった。
顔を上げると、星は鷲林寺への行き方を調べ始めていた。
「ここまでなら、どうやって行くのがいいかな」 「いくつか行き方がありそうですね。一緒に見ますか?」 「うん」
摩耶は椅子を少し寄せた。 牛女の正体は、まだ分からない。
けれど、茶畑が次に鷲林寺へ行く時は、一人ではない。
ゴールデンウイークに、四人で弁天池へ。 まずは、その約束から始めることになった。